2014/08/29 第1回 ダビスタの原点を振り返る(その1)
Text by 成澤大輔(ダビスタ伝道師)

こんにちわ。
“ダビスタ伝道師”の成澤大輔といいます。
初めての方もお久しぶりの人もよろしくです。
このたび『ダービースタリオンGOLD』(以下、『ダビスタGOLD』)の発売に際し、『ダビスタ』チームから「オフィシャルにダビスタ伝道師を名乗ってよろしい!」とのお墨付きをいただきました。
伝道師なんていかにもアヤシげですけど、要するに『ダビスタGOLD』の楽しさをさまざまな方向から掘り下げて、皆さんにお伝えする役目です。
当公式サイトを中心にいろいろやっていきますので、ご声援お願いします。

すでに発売されているゲーム総合誌の週刊ファミ通や競馬情報誌のサラブレで掲載された薗部博之さんのインタビュー記事によると、『ダビスタGOLD』は「原点に返る」ことを目指しているとか。
『ダービースタリオン』の原点と言えば、やはりファミコン版!
そこで、わたしも自分にとっての原点、“ダビスタ伝道師”誕生までの歴史を振り返ってみます。

第1作の『ベスト競馬 ダービースタリオン』(いわゆる『関東版』)が発売される直前だった1991年12月初めのことです。
ゲームライターとしてバリバリ仕事をこなしていた当時、仲が良かった編集者から「『ベストプレープロ野球』を開発した薗部さんが、競馬のゲームを作ったよ。成ちゃん(わたしのことです)なら絶対に気に入るから見に行こう!」と取材に誘われたのでした。
ですが、ファミコンで自分が熱中するような競馬ゲームができるのだろうか……と半信半疑のまま、ソフト発売元のアスキーで初のご対面となりました。
コントローラーを渡されてプレイし始めたわたしの様子を、同行していた編集者はこう語ったのです。
「ゲームを立ち上げてまず種牡馬のリスト画面を開いた成ちゃんは、リストと各種牡馬の画面を行ったり来たりするだけで、1時間以上ひとつもゲームを進めなかった」と。

この時点でわたしの競馬歴は10年ほど。
ため込んだ競馬週刊誌をことあるごとに読み返すマニアックな競馬ファンでしたから、ノーザンテーストやミルジョージ、リアルシャダイといった当時最高の種牡馬たちが画面内にずらりと並んでいる……それだけで、頭のネジが弾け飛んでしまったみたいですね。
ほどなくして製品版が発売されると、当然のように昼夜を忘れてプレイしまくり、仕事をしているか、『ダビスタ』をするか、という生活にハマり込んでしまいました。

とにかくどんな場でも「『ダビスタ』サイコー!!」と叫びつづけ、当時メインの仕事先だったゲーム情報誌のHiPPON SUPERの座談会では「『ダビスタ』は10点満点で100点!」と吠えたこともありました。
わたしの本職は攻略本の編集制作ですから、もちろん『ダビスタ』の本を作ろうと企画を立てました。
『ダビスタ』の攻略本を作れるのは自分しかいないと思っていましたし。
しかし、時代はスーパーファミコンへ切り替わろうとしている時期で、“ファミコンのソフト”というだけで編集部からは拒絶されました。
ようやく攻略本の企画が通ったのは、『ダビスタ』が発売から半年ほど経過したとき。
ソフトの累計販売数が10万本を超えてからのことでした。

以上、“ダビスタ伝道師”誕生前夜のことです。
その後、“ダビスタ伝道師”を名乗るまでのいきさつは次回に書かせていただきます。
古い話におつきあいいただき、ありがとうございます。
今後も『ダビスタGOLD』のコラムを定期的に更新いたしますので、ご期待ください。

成澤大輔(ダビスタ伝道師)
1965年東京生まれ。1981年に競馬ファンとなる(当時高校1年生。その年の年度代表馬はホウヨウボーイだった)。1986年からライター、ゲーム攻略本編集制作を始め、1991年の年末にファミリーコンピューター用ソフト『ベスト競馬 ダービースタリオン』と出会う。1992年の春に『ダービースタリオンを一生遊ぶ本』(JICC出版局)を発刊し、以後15作にわたる家庭用機すべてとPC9800版の攻略本、2冊のファンブックを制作。また、プレイステーション版『ダービースタリオン』とのコラボ誌『ダビスタマガジン』(メディアファクトリー)の編集長も務めた。『ダービースタリオンGOLD』でふたたび“ダビスタ伝道師”を名乗れることに大きな喜びを感じている。
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